ドイツからの出展は最初にプロイセン、その後ドイツ帝国として行われました。そしてドイツ連邦共和国になってからも、世界各地の万博に続けて出展してきました。1928年にパリで締結された条約に基づき万博の統括組織として博覧会国際事務局(BIE)が設立されましたが、ドイツは他の32カ国とともに同条約に調印しました。以来、ドイツはBIEの会員となっています。
1851年にロンドンで世界初の万博が開催された際には、シーメンス社の前身であるTelegraphen-Bauanstalt von Siemens & Halskeがドイツ関税同盟の展示に加わり、電信機や踏切警報器をはじめとする、代表的な自社製品の数々を出展しました。
ドイツからの出展は最初にプロイセン、その後ドイツ帝国として行われました。そしてドイツ連邦共和国になってからも、世界各地の万博に続けて出展してきました。1928年にパリで締結された条約に基づき万博の統括組織として博覧会国際事務局(BIE)が設立されましたが、ドイツは他の32カ国とともに同条約に調印しました。以来、ドイツはBIEの会員となっています。
1851年にロンドンで世界初の万博が開催された際には、シーメンス社の前身であるTelegraphen-Bauanstalt von Siemens & Halskeがドイツ関税同盟の展示に加わり、電信機や踏切警報器をはじめとする、代表的な自社製品の数々を出展しました。
1873年ウィーン万博では、エッセンの産業家アルフレート・クルップが独自のパビリオン出展を成し遂げ、ドイツ有数の鉄鋼メーカーとして冶金工業製品を出展しました。クルップ社製の大砲は来場者やジャーナリストを驚かせ、大きな反響を呼びました。
1876年フィラデルフィア万博は、各国のナショナルパビリオンが建てられた初の万博となりました。ドイツ帝国も独自のパビリオンで出展しましたが、期待したような成果をあげられませんでした。そこで、国際市場におけるドイツ製品の競争力の欠如が露わになりました。ドイツから判事としてフィラデルフィアに派遣され、自身も機械エンジニアであったフランツ・ルーローは、「(ドイツ製品は)安っぽくて劣悪な品質で、目新しさもない」と批評しています。彼の辛辣な批判はドイツ本国で重く受け止められ、同者は1880/81年メルボルン万国博覧会のゼネラルコミッショナーに任命されています。
フィラデルフィア万博におけるドイツパビリオンの酷評を受け、ドイツ帝国は1893年シカゴ万博で競争力に劣るドイツ製品のイメージを払拭したいと考えていました。分野別の展示ホールだけではなく、クルップ鋳鉄工場パビリオン(「クルップ銃展示」)などの独自パビリオンでの参加も含めて、数多くのドイツ企業が出展しました。
1904年セントルイス万博には1,500棟のパビリオンが建設され、ドイツを含む60カ国が参加しました。ドイツパビリオンは、建築家ブルーノ・シュミッツによってベルリンのシャルロッテンブルク宮殿をモデルに設計されました。また、1900年パリ万博での好評を受けて、ドイツ館の隣にドイツワインレストランが再び併設されました。
1910年ブリュッセル万博で、ドイツは大規模な出展を行いました。33,000平方メートルという広大な敷地に数多くのパビリオンが建てられ、ドイツ館およびレストラン併設のミュンヘン館のほかに、美術工芸品、工業製品、機械、鉄道製品などのテーマ別展示館の合計11棟が建ち並びました。出展品の一つは「モデルハウス」とよばれる労働者世帯向け住宅の100%解体可能な木造建築2棟で、注文に応じて内装も追加できました。今から考えると、史上初のプレハブ住宅といえます。記念碑的な建物というよりも、どちらかというと実用性に重きを置いたモデルハウスは、郊外の邸宅や屋敷のスタイルを踏襲しながら、統一した外観を保つ建物群として計画、設計されました。その意味では、ドイツパビリオンは当時のドイツ建築界の時代精神を反映するものでした。
万博の長い歴史のなかでも1929年バルセロナ万博のドイツパビリオンは単純明快なラインとシンプルなフォルムの建物で、今なおモダニズム建築の金字塔とされています。このパビリオンはドイツの建築家ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエがバウハウス様式で設計しました。ミース・ファン・デル・ローエはパビリオンの調度品も自らデザインしましたが、後にバルセロナチェアとして世界的に有名になる椅子も彼の作品です。万博後、パビリオンは解体されました。しかし、その建築史上の価値を惜しむ声が高まり、1983年~1986年にバルセロナ市により当時の設計図に基づいて万博当時と同じ場所に復元されました。
1937年パリ万博ほど、その時代の政治状況を色濃く反映した万博はありません。とりわけ、それはドイツとソビエト連邦のパビリオンの配置に端的に現れており、巨大なドイツ館とソ連館が対峙するように建てられていました。ドイツ館の設計はベルリンの建築家アルベルト・シュペーアによるもので、内装外装ともにパビリオン建築全体が第三帝国(ナチスドイツ)の代表的な建築様式でデザインされていました。続く1939年ニューヨーク万博と1949年ポルトープランス万博には、ドイツは参加していません。
終戦から13年後の1958年、ブリュッセルで万博が開催されました。誕生からまだ歴史の浅いドイツ連邦共和国にとって、これは西欧の民主主義国家の一員であることをアピールする絶好の機会で、ドイツとしては大戦により失墜した国際的な信用を挽回したいとの思惑がありました。しかし、このことは外交的に非常にデリケートな課題でした。はたして、この万博のドイツパビリオンの建物群は、1937年万博におけるアルベルト・シュペーアの設計の真逆を行くものでした。二名の建築家が6,000平方メートルの敷地内にパビリオンとして建てたのは、それぞれ大きさの異なる1階~2階建て箱型建物8棟です。それらが中庭を取り囲む形で配置され、渡り廊下でつながれていました。そして建物全体がガラス張りのため、透明感のある軽快な印象を与えました。展示内容自体も意識的に控えめに抑えられたものでした。焦点となったのは、ドイツ連邦共和国の経済復興や新しい外交政策的な役割ではありませんでした。むしろ、ルートヴィヒ・エアハルト連邦首相の言葉を借りれば、万博は「技術や産業の進歩を人に近づけるための国際協力アイデアのショーケース」と位置づけられていました。
1958年ブリュッセル万博以来、万博で技術的な進歩だけを競い合う時代は終わり、1967年モントリオール万博でも人類の普遍的な問題がテーマとなりました。そのときのドイツパビリオンは、建築家フライ・オットーがロルフ・グートブロートと共同で手がけました。ドイツ館の巨大な吊りテントは、後にオットーが手がけるミュンヘンオリンピック競技場の屋根を想起させる構造です。このドイツパビリオンも建築史にその名を刻み、近代建築家のオーギュスト・ペレにちなんだ「ペレ賞」が授けられました。パビリオンの建物自体がドイツのエンジニアリング技術水準の高さを象徴しており、また内装にも科学技術の成果が盛り込まれていました。また、第二次世界大戦の影響を取り上げた専門の展示コーナーもありました。
1970年大阪万博においてドイツはこれまでとは全く異なるアプローチの斬新な展示で、一部に物議を醸しました。「音楽の花園」というテーマでドイツが設営したのは「球体オーディトリウム」。これは、前衛作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンのインスピレーションとベルリン工科大学の電子音響スタジオのコンセプトに基づいて設計された、世界初かつ前代未聞の球形コンサートホールでした。観客は球体の中心からやや下に設置された、通音性のある金網の円形フロアに座り、全方向に設置された50のスピーカー群からの音を聴くことができました。このユニークな空間のために特別に作曲された3次元的な電気音響の空間音楽作品が演奏されました。シュトックハウゼンが率いる19人の一流音楽家によるアンサンブルは、180日の会期中、総勢100万人以上の来場者に対してライブコンサートを行いました。
1970年大阪万博においてドイツはこれまでとは全く異なるアプローチの斬新な展示で、一部に物議を醸しました。「音楽の庭」というテーマでドイツが設営したのは「球体オーディトリウム」。これは、前衛作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンのインスピレーションとベルリン工科大学の電子音響スタジオのコンセプトに基づいて設計された、世界初かつ前代未聞の球形コンサートホールでした。観客は球体の中心からやや下に設置された、通音性のある金網の円形フロアに座り、全方向に設置された50のスピーカー群からの音を聴くことができました。このユニークな空間のために特別に作曲された3次元的な電気音響の空間音楽作品が演奏されました。シュトックハウゼンが率いる19人の一流音楽家によるアンサンブルは、180日の会期中、総勢100万人以上の来場者に対してライブコンサートを行いました。
2000年、ドイツ初の万博が「人間・自然・技術:新たな世界の幕開け」のテーマのもとにハノーバーで開催されました。未来のビジョンを世界に発信する、それまでとは一線を画する万博の創出を目標に掲げた万博は、人間、自然、テクノロジーの均衡を実現するモデルを提示し、世界人口60億人時代における人類共存の可能性を探ろうとしました。ドイツパビリオンの最大の特徴は、内側に反ったフォルムのガラスファサードでした。木造屋根を支える柱の大部分もガラスが使われていました。フリードリヒスハーフェン出身の建築家で、パビリオンの施工主でもあるヨーゼフ・ヴントがパビリオンの設計を手がけました。
2010年、中国初の万博である上海万博は、「より良い都市、より良い生活(Better City, Better Life)」をテーマに開催されました。ドイツは調和のとれた都市を意味する「バランシティ(balancity)」という名のパビリオンで出展しました。Schmidhuber + Partner (ミュンヘン)の建築家が設計したパビリオンは、銀色に輝くテキスタイル膜材で覆われた3つのボディがバランスを取りながら支え合うように建てられていました。また、展示の最後には感動的なショーがハイライトとして待ち受けていました。館内の600人の参加者が声を合わせて叫ぶことで、映像に彩られた巨大な球体が振り子のように動き始めるという演出でした。展示コンセプトは、シュトゥットガルトのデザインエージェンシーMilla & Partnerが担当しました。
2015年ミラノ万博では、「地球に食料を、生命にエネルギーを(Feeding the Planet, Energy for Life)」という全体のテーマに連動して、ドイツパビリオンは「アイデアの畑 (Fields of Ideas)」というコンセプトを打ち出しました。つまり、将来の食糧問題に対するアイデアを生み出す、生命力に溢れた肥沃な畑としてドイツを紹介しました。「Be active!」をモットーにした体験型の展示で、自然を敬う気持ちが食料安全保障にいかに大切であるかを伝えました。前回に引き続き、展示コンセプトはシュトゥットガルトのデザインエージェンシーMilla & Partnerが担当し、パビリオンの設計はミュンヘンの建築事務所Schmidhuber + Partnerが担当しました。なだらかに起伏する建物の外観はどこかドイツの耕地や農地を思わせ、自由に行き来できるデッキと建物内部のテーマ展示が有機的に連動する設計でした。
2020年ドバイ万博のドイツパビリオンのコンセプトは「CAMPUS GERMANY」でした。NÜSSLI建築会社とLAVA建築事務所との連携のもとに、ケルンの制作会社facts and fictionがデザインしました。来場者は大学のキャンパスを歩くように展示ルームをたどりながら、インタラクティブなコンテンツで持続可能なライフスタイルを段階的に学べる仕掛けでした。そして、最後に感動のフィナーレが来ます。来場者はブランコでいっぱいのルームにたどり着き、他の来場者といっしょにブランコを漕ぎます。大きな目標を達成するためには力を合わせる必要がある、というメッセージがそこに込められていました。